A LIFE IN JAZZ|一度きりの人生を豊かに過ごす秘訣

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第二回Jaz雑学〜変わった経歴のピアニスト〜レッド・ガーランドとは?〜

こんにちは今回はマイルスのバンドで名を馳せたことでも有名なジャズピアニスト

レッド・ガーランドについて深掘りしていきたいと思います。

レッド・ガーランド(1923-1984)

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本名をウィリアム・マッキンリーレッド・ガーランドアメリカ合衆国テキサス州出身

音楽一家の生まれではなく父親は第一国立銀行のエレベータのオペレータでした。

最初にガーランドが始めた楽器はクラリネットで、途中でアルトサックスに切り替えました。

そこには、アルトサックス奏者のバスター・スミスとの出会いがありました。

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バスター・スミス、通称スミス教授はガーランドと同じテキサス州のダラス出身で

ビバップの生みの親であるチャーリー・パーカーはスミス教授に従師しました。

そのため、パーカーに多大な影響を与えた人物として有名です。

ガーランドも彼から、ジャズの理論的な指導を受けていたようです。

 

1941年、陸軍でピアノを始めた18歳のガーランドはアリゾナ州のフワチューカ砦に駐在していた際、他の軍人のピアニストがレクリエーションルームで毎晩演奏しているのを聴きます。

そのピアニストの名はジョン・ルイスと言います。(ただしMJQのジョン・ルイスではない)

ピアノへ関心が高まった彼はついにはそのピアニストから教えてもらうことにしました。

バスター・スミスの下で譜読みなど音楽の指導を受けていたのでゼロから始める必要はなく

毎日、朝から晩まで練習を重ねたガーランドは、急速に成長していきました。

ここまででも十分多彩な才能の持ち主であることが伺えます💦

 

ところが、彼はクラリネットと同時にボクシングにも熱中していたのです。(スゴイ

ウェルター級のプロボクサーとしても活躍していました。

史上最強のボクサーと評されるのシュガー・レイ・ロビンソン(下写真)と一戦交えたことのあるほどの人物で

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将来のキャリアに向け音楽かボクシングか進路を選択する必要がありました。

結局ピアノを選択した彼でしたが、怪我でピアノが弾けなくなるのでボクシングを諦めたとかなんとか。。。

 

1944年に彼は陸軍を去った(やめた?)後

恩師バスター・スミスのバンドに在籍ツアーに参加します。

その間1945年にテキサス州のフォートワースのテノールサックス奏者のビル・ブロッカーと

初のギグに参加します。これが彼のプロデビューでした。

ピアノを初めてたった5年という歳月でよくここまでできるなとびっくりです笑

ある晩、ミントンズでガーランドがピアノを弾いていると、バド・パウエルがやって来ました

そしてガーランドにピアノの席を譲るよう要求します。

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バド・パウエルが演奏した時、ガーランドは自分自身が提供したそのギグによって

完全に打ちひしがられることになりました。

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しかし、ガーランドはその後、バド・パウエルの自宅に頻繁に訪れるようになります。

彼から色々なことを学んだガーランドはついにバド・パウエルと親しい友になりました。

そして、超人的なピアニストのアート・テイタムの次に多くの影響を受けることになるのです。 

また、彼はアート・テイタムからも指導を受けました。

ある晩ピアノのみが設置されているニューヨークのジャズクラブ

”Lucky's Rendez-vous"でアート・テイタムから

ピアノを弾くのではなくピアノに演奏させるように言いました。

そして使えるいくつかのアルペジオを教えました。

 

そして1946年、ニューヨークツアーが終わったのを機に、ナイトクラブで演奏を開始します。

 

1947年、当時モダンジャズの主要な音楽シーンであったフィラデルフィアブルーノートクラブでガーランドは2年間ピアニストを担当しました。その際、マイルス・デイヴィスチャーリー・パーカーらその他の有名ジャズマンらと演奏を重ね腕を磨きます。

1949年、ジャズの伝説的なテナーサックス奏者コールマン・ホーキンス

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トランペット奏者のロイ・エルドリッジら

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に雇われると、瞬く間に彼の評判は広まります。

レッド・ガーランドが並外れたプレイヤーであることが多くのジャズマンに伝わり

レスター・ヤングをはじめとする数多くの人物が彼を雇いました。

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彼は1950年初頭までトリオのリーダーとしても力を十分に発揮し活動を続けます。

ところが、1955年マイルス・デイヴィスからクインテットに誘われます。

これがマイルスの第一期黄金のカルテットと呼ばれるバンドの始まりで

メンバーにドラムのフィリージョージョーンズ、テナーサックスにジョンコルトレーン

ベースにボールチェンバース、そしてリーダーのマイルスです。

この後モーダルジャズに傾倒していくマイルスでしたが、ガーランドはそれを良く思わなかったようで、新しくピアニストにモーダルな理論に造詣の深いビル・エヴァンスを据えました。

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その後のジャズシーンは縮小の一途をたどりましたが、彼はビバップのスタイルを最後まで貫きました。1984年の4月23日に心臓発作で亡くなるまで、彼は控えめであったものの演奏スケジュールを続けていました。

 

いかがでしたでしょうか?

個人的には18歳からピアノを始めたのにもかかわらず、23歳でプロになったのは彼のジャズに対する情熱によるものだろうと思いました。また、彼は紆余曲折ありながらも上達していけたのは”指導者に頭を下げ教えを乞う”ということがきちんとできる謙虚な人だったのだろうと思います。それも含めてすごい人だなと感じますね。

最後に彼のレッドというミドルネームなのですがどうやら、若い頃髪をレッドに染めていたことからきているらしいです笑

最後まで見ていただきありがとうございました!

それではまた!

 

参考文献: https://musicians.allaboutjazz.com/redgarland?width=375

http://ttps://musicians.allaboutjazz.com/redgarland?width%3D375¥