A LIFE IN JAZZ|一度きりの人生を豊かに過ごす秘訣

音楽の紹介やその雑学、読書、生活知としての哲学、など幅広く書いています。

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僕的2020年に感じたジャズってるかもしれない哲学〜頑張りすぎないのススメ〜

今年一年を振り返ってみると、コロナで人とのテレワークなどコミュニケーションが大きく変わったのもあるが、環境の変化が大きかった。というのも、僕は2017年から3年弱の間、県外の大学で電気電子を学んでおり、現在は実家で生活しているからなのだが。

大学にいた頃の自分を今、冷静になって振り返ってみるとかなり必死で授業や課題、研究室、ジャズ、哲学、そして料理、をひたすらぐるぐる回っていた。人間だれでも自分の今の立ち位置に何か、生きがいや、やりがいを求めるもので、真面目に生きようとしている人ほど、その傾向が特に強い。僕自身、苦手なことに突っ走ることで自分を追い込むことで良い何かが得られると思っていたし、自信をつけるにはそれしかないと、それを生きがいと捉えていた節があった。もちろん適度に、苦手を克服できるように努力するのは大事だけど、それはそれとして、僕個人の偏った考えとしては、それができないと社会でやっていけないとか、馬鹿にされるとか苦手なことができるようにならないとダメだと、ある種の脅迫観念を自分で持っていたのだと思います。まあ、社会のレールにそっていないと死みたいなものですね。ただ、何か自分の理想の成果をあげることって結構難しいし、やはり育った教育環境とか、遺伝、時代にも左右されるってことも実家に来てから認識しできるようになった。

大企業に入れる人も結局のところ、本当に会社で活躍できる人材とか実戦でやっていける人材っていうよりは、もし自分が選んだ人があまり活躍できなかった時に、何で選んだかっていうのを客観的な指標として学歴を用いた方が周りを納得させられるし自分を守れるという側面もあるともう。人間それぞれ苦手や得意がある、それも中々把握できない時期に大学を選択したり就職するのって難しいんじゃないかなって最近になって思う。保育士の勉強を始めてその中で、思春期で自己のアイデンティティが確立する時期が〜22歳くらいまでだったってのを知ったのだが、なるほどなと思った。なぜならその年齢までに就職活動の多くって大体終わってるし、そんな心も不安定な状態で人生の大きな進路決めるんだから数年で退職したりする人も多いよって、なんか納得できる。多くの友達は”社会の波”をある程度仕方ないと思っているのかもしれない。就活の時に、別に自分が好きでもないけど、なんとなく福利厚生とかいいしって、割り切ってそれっぽい志望動機も書いてっていうのができる人はすごいと思う。自分の苦手なことを伸ばすのも大事だけれど、それ以上に自分が潰れないように力を抜くという努力や、自分の得意なこと、そうでなくとも関心のあることや、今の自分にか十分”実現可能な範囲”で自分のやってみたいと思うことに挑戦するのは長い目でみていいのかなって思ったりする。自分にできる範囲、がんばらない範囲、っていうのが重要な気がする。

あと、自分の自信を得るために、何かを成し遂げたり、権威を獲得するというのも結局、一時的なものだ、と思う。上には上がいると考えたら、持続可能な自分の自信にはならない。むしろ、自分に合った頻度での人間関係を大切にすることの方が、コスト的に楽な場合がほとんどで、相手との相性によって無理な努力がいらなかったりする。これからのコロナの時代、何が起きるかわからない現代は、それによる自信って馬鹿にできないと思う。お金でモノは買えるけど、人との本当の信頼、仲間との思い出は買えない、お金や権力をもし失ったとき、自分の周りに自分を信じてくれる人はいるだろうか?極端な話、たくさんの友人との信頼関係があれば、お金はそこまで必要ないのではないかとも思うんだ。もし、家やお金、権威を失ってもきっと頭を下げて頼み込むことができるから。学校でいい成績をとっても、学校以外でその評価は保証されるわけではない。だけど先生はいい成績をとる、ということのみに注目して生徒を叱る。結局学校でどれだけ成績が良くたってそのひとの確固たる自信にはならない。ただ、仲間を作るには学校というコミュニティーでは小さすぎるし閉鎖的だとおもう。だから、そういう人たちは自分を守るためにも自分の力以上に努力をするんだろう。そして真面目という価値観も相まって、頑張りすぎるということを唯一の自分のアイデンティティにしてしまう。それはもったいないなと思うし、持続可能ではない。

自分の体を思いやるというのは、今の若い人は特に意識的にやれているだろうか?新卒という枠組みから外れることが悪だという一般論だが、コロナにおいて、もっと柔軟に人材を選ぶ必要があると思う。自分の体を思いやるというのは、自分がしんどい時に逃げるということも含まれのではないだろうか、そういう意味で自分を大切にするというのは、意外とできないものだ。特に学校という括りの中、上下関係がある状態では特にそうだろう、逃げることや諦めることは悪だという感覚だから。どう思われるかとか、そう言った視点でしか自分を評価できない空間に長時間いるとどんどん自分が窮屈になっていく、周りに合わせないといけない、合わせられない自分は弱いのだとか、私の進路は周りが納得いく進路であるべきだ、とか

大学に入ってから知ったことなのだが、人間は物事をまず直感的に大まかに判断するということだ。そして後付けとして理屈で説明し合っていることを説得するという流れになる。実は、僕自信、大学に入る前は数学という学問は何か理性的な、理論的な思考のみで行われるものだと思っており直感など入る余地がないのだと信じていた、ところが理論的なものであっても直感的に理解することが実はかなり大事であった。例えば複雑な数式を見通し良くすること(直感的に理解しやすいようにすること)が大事だったりするグラフなんかもそうだ。もしかすると理論的に(打算的に)最初から考えてやことっていうのは大体、心から根ざしてやりたいことではなく体裁や取り繕ってる場合が多いのではないか?と個人的には思う。そもそも自分の進路を相手に100%説得するとこは無理だし、理解されるかわからない相手に説明する必要があるのか?という疑問も湧いてくる。また、人である以上、この人には理解されても、この人には理解されないという場面はでてくるものだ。そういう時、理解されない人のために身を削る必要はあるのだろうか?それよりも、自分のことを認めてくれる一人の人間に出会うことの方がこれからの可能性も広がるし、自信にもつながるのではないかと思う。ここに、教育の罠がある、教育というものが画一化され教師と生徒が対等の関係ではなく、生徒が無意識的にも抑圧された状態になってしまっていることだ。そして、本当に生徒の心の声を聞いたふりをして聞く。生徒それぞれの価値観をあるがままに見る先生をみたことは未だ一度もない気がする。生徒に質問はないかと投げかける先生も、形式的にやっていることに気がついていない、自分はきちんと生徒を考慮していると自負している。教育の本来のあるべき姿は、自発的に先生に質問がしやすい状態に教師がもっていくことができるということである、強制的に生徒を当てて答えさせるというのは、経験からすれば成功すれば自信に、失敗すれば自信を失うことになる。また、その自信を維持することはできないと感じる。また、日本の文化の良い側面だけでなく、おそらく遺伝子レベルで村社会的な、何か一人が目立って発言することを嫌う性質があることも伝えた方がいいのではないかと思う。日本人の性質を歴史的な背景もふまえて学校教育で伝えたらいいのではと思ったりする。僕はグローバルという言葉にも違和感を感じる、まず日本人としてのどういう思考をしやすいのか価値観の現在地を知る必要があると思う。その上で海外はどのように考える人が多いのか考えていく。だから西欧、欧米の表面的な価値観をただ盲目的に崇拝するのはいかがなものかと思うのだ。