〜ジャズ界の公爵〜デュークエリントン
夏休みもようやく終わりましたね
お母さん方は夏休み中、子供の昼食分も作らなくてはならず
大変だったという声もあったことをニュースなどで聞きました
本当にお疲れ様でした。
さて、
今回の特集は
”A列車で行こう”という有名な曲でもよく知られられていている
ピアニストでオーケストラリーダーの
あのデューク・エリントンについて
みなさんと一緒に見ていきたいと思います。
エドワード・ケネディ・エリントン(本名)は
1899年4月29日にアメリカのワシントンD.Cに生まれました。
両親は、なんと共にピアニスト。
母親は黒人の方としては当時珍しく、高校まで進学しており
とても知的な人だったそうです。
父親は、白人のお医者さんの執事とイベントで料理を振る舞う仕出し人
を仕事にしていました。
彼は雇い主の所有する図書館を活用して、自ら多くのこと学んだそうです。
そんな二人は、幼いエリントンを紳士のように扱い
洗練されたマナーと話し方を教えました。
こうして、エリントンは幼少期から優雅な態度を身につけ、両親、友人などから
デューク:Duke(公爵)
というニックネームで呼ばれるようになったのです。
彼は7歳の時から本格的なレッスンを受け始めます。
ところが、レッスンを初めたばかりの頃、エリントンは音楽よりも
野球の方に興味を持っていたそうです。
その当時、”野球”は娯楽としてアメリカで確固たる地位を築いていたこともあり
スウィングジャズ(1930〜40)の頃のバンドリーダーにも野球が好きな方が
かなり多かったようです。(デューク・エリントン、ルイ・アームストロング
また、彼は商業芸術の高校に通っていたこともあり
高校を中退してから
10代の頃はフリーランスの”サインペインター”として働いていました。
(おしゃれなお店の看板やガラス窓などに整った字体で文が書いてありますよね
あれを書く仕事です。)
などの音楽が巻き起こり、彼もその影響を受け真似するようになります。
そして、音楽を制作し、演奏したいすることを切望します。
1900年代初頭、アメリカで、ダンスという文化が公で認められるようになり
のちに社交ダンスが大流行
また、彼は10代の頃から、社交ダンスのパーティ会場でピアノを弾いていたそうです。
そして、ダンスのための音楽を奏でるためのメンバー集めを開始します。
ここから、彼の音楽としてのキャリアが始まっていきました。
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感想
両親ともにピアニストだったというのは驚きました笑
その当時にピアノを習えてること自体が、かなり稀なんじゃないかなと思います。
また、彼はカリスマ性やリーダーとして素質を持ち
その能力を十分に発揮していたのだと思います。
自分の才能と役割に気がついて早くから行動できるところなんかも凄いところですね。
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今回も最後まで読んでくださりありがとうございます!
少しでもジャズに興味を持っていただけたら嬉しいです。
それでは、また!
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本当にありがとうございます!とても励みになります!
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おまけ
こちらのサイトでデュークエリントンが野球をしている写真と動画が見れます!
よかったらぜひ!!